北海道旭川市に鎮座する上川神社

上川神社 〒078-9327 北海道旭川市神楽岡公園 電話:0166-65-3151

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鎮座地神楽岡について

上川神社鎮座地神楽岡について

神楽岡の歴史について

上川離宮計画と上川神社

神楽岡公園全景イメージ
神楽岡公園全景

 現在上川神社は、旭川市内を望む丘、「神楽岡」に鎮座しています。神社を含む神楽岡公園は、開拓以前の原初の森の姿を保ち、面積は約44.5haと 同規模の都市として市街中心部にこれだけの森林が残されているところは なかなかありません。
  創祀当初は現在の旭川駅付近、次いで現旭川市役所付近、宮下21丁目と市街の発展に伴い鎮座地が移り、大正13年には現鎮座地へと移転、今に至ります。
  この「神楽岡」という地はかつては、天皇陛下のお住まいの皇居以外の宮殿である「離宮」の建設計画があった場所でした。

北京計画を提唱した岩村通俊

岩村通俊イメージ
岩村通俊

 明治2年5月、函館に立てこもる旧幕府軍が降伏し、新政府は同7月開拓使を置き北海道の開拓と整備に乗り出します。
  当時北海道の開発について、政府また開拓使では札幌を開拓の中心に据え、船などの交通の利便性や北方への防備を念頭にまずは海岸線の開拓を進めるという方針で広大な内陸部の開発は手付かずのままでした。

  明治5年、開拓使判官の岩村通俊(土佐出身)は、北海道の開発は内陸部より進めてそれを四方へ広げるべきと考え、北海道のほぼ中心にあたる上川の開発こそ北海道開発の急務であるとし、部下の高畑利宜に上川の視察を命じます。三ヶ月にわたる調査の後、高畑は上川が土地肥沃かつ平坦で耕作牧畜にも適し森林にも恵まれており、一刻も早く開発すべきと詳細な報告書を提出して、岩村は上川開発の思いを深めます。

 同15年会計検査院長であった岩村は北海道を視察し、さらに以前の考えを深め、時の太政大臣三條實美に「奠北京於北海道上川議」という建議書を提出しました。これは離宮にとどまらず「北の京を上川に置き、開拓を勧め一大都府を開く」といういわば首都移転計画とも言うべき壮大なものでした(北京とは、西京=京都、南都=奈良、東都=東京に対する北のみやこの意)。

 明治18年、政府は北海道開拓を進める為、実地調査が必要として、司法大輔となっていた岩村通俊に裁判所事務視察にあわせ上川原野の調査を命じました。
  岩村は勇躍北海道へ、上川へと歩みを進め、幾多の苦労をしながら、永山武四郎屯田司令長官等と共にはじめて近文山に登り上川盆地を視察しました。その様子を岩村自身が記した「上川紀行」では、「上川盆地は石狩岳は比叡山に似、流れる川は鴨川の如くして、京都よりも更に規模が大きく、素晴らしい。ここは後日我が国の北の京となるだろう」と述べています。
 岩村は興奮を抑えられないのか、帰京する前函館の宿で「北京を上川におくの議」を草し、三條太政大臣宛に郵送します。その内容は、「以前北京を上川に建設し殖民局を置くべしと建議した。今回実際にはじめて上川の地を視察したが、その素晴らしさは聞くに倍するもので、前議を採用すべしとの思いを強くした。」と述べ、まず北海道の中心である上川を開き、それを全道に広めるべきと説きました。

 明治19年1月政府は北海道庁を札幌に置き、開拓等北海道に関わる事務を一元化しました。そして、その初代長官には岩村が任ぜられました。
  岩村は同年2月早速北海道へ渡り、上川開発のための必要な施策を次々と実行します。翌20年10月には再び上川へと入り近文山から視察、また神楽岡にもこのときはじめて登りました。
  岩村長官は上川開拓に情熱を込め精力的に進めていましたが、明治21年6月政変により黒田清隆が総理大臣となり、道庁長官から元老院議官へと追われてしまいます。


離宮建設の土台をつくった永山武四郎

永山武四郎イメージ
永山武四郎

 後を受けて第2代長官となったのが、岩村と共に近文山へ登った永山武四郎屯田兵長官です。永山は薩摩出身で岩村とは出身こそ違いますが、就任挨拶では「北海道の開発は内部よりせねばならない、ことに上川の開発をもって急務とする。この方針に反対するものはよろしく速やかに去るがよい。」と述べ、北海道開拓の方針は岩村とほぼ同じであったと言えます。

 初代長官岩村の意をよく継ぎ、上川開発の施策をすすめていた永山は明治22年9月27日神楽岡に登り
「上川の清き流れに 身をそそぎ 神楽の岡に 幸行仰がん」
「畏みし 神のまします位山 民仰ぐべき 御幸をぞまつ」
  と詠み、永山長官の手書きされた二首は、上川神社社宝として伝えられています。
  同年10月黒田内閣が倒れ三條實美が暫定内閣を組閣します。その翌月11月に永山は北京計画の準備が整ったとして三條総理大臣に対し
「北海道石狩国上川郡ニ北京ヲ設定セラレ人心ヲ北海道ニ帰嚮セシムルの件』を上申します。簡潔に記すと、「土壌肥沃で資源も豊かであるにも関わらず、絶海の孤島の如く嫌って人々が移住せず開発がなかなか進まない北海道に、北の京を設置し人心を集めるべきである。その候補地としては上川(現旭川)が最も良いと考える。東京が炎熱の季節に陛下にはこの地へ行幸され、ご健康を保たれ、また開拓殖民の事業をご覧になれば、人民も感激し天下の民心定まり、移住を嫌うこともなくなり北海道は近いところとなるであろう。」
  同じく11月宮内大臣土方久元(土佐出身)より永山と同様の建議がなされ、内閣に回覧されており、宮内省もこのことについて積極的であったことがわかります。

 その後、法制局長官井上毅の大変厳しい反対意見や宮内省の建議取り下げ等、紆余曲折がありましたが、12月24日山県有朋内閣が発足し、同25日土方宮内大臣は、山県総理大臣宛に次の申牒(文書)を提出します。

上川離宮を決定的にした内閣宣達の原議イメージ
上川離宮を決定的にした
内閣宣達の原議

  「前略、石狩国上川郡内の地ヲトシ他日一都府ヲ立テ離宮を設ラルルニ付夫々計画施設可致旨被仰出候右申牒ス」というものです。
「北京」から「離宮」へとトーンダウンしているものの、「他日一都府を立て」としているところからも実質的には当初の計画通りと言えます。また、文の最後に「仰せ出され」とありますが、この主語は言うまでもなく天皇陛下です。
  思し召しであることからか、対応速く同月28日に総理大臣の決裁が出て、翌23年1月官報へ掲載されます。
官報へ掲載された同じく1月永山長官は早速離宮調査委員を任命し、離宮並びに上川都府建設に関する調査をさせて、現上川神社の鎮座地一帯を皇宮予定地として政府に上申し、確定しました。合わせて明治24年には離宮計画に基づいての旭川村造りが進められ、次々と屯田兵が入植をはじめます。

 しかし、明治25年第四代北垣長官は、「上川での離宮造営に反対する。もし造営するなら札幌近郊に」との陳情をおこないました。背景としてこの年に札幌で大火があり、復興が進んでないうえ、札幌で地盤を築いた経済人たちが開発の中心が旭川へ移るのを嫌った為、反対していたとの指摘もあります。その後日清、日露の両戦争もあり、離宮計画は次第に雲散霧消していきます。

お休所イメージ
行啓の際建設されたお休所

しかし、明確に「中止」との発表があったわけではなく、市民によって、造営の陳情等はその後も続けられました。そんな中、明治44年当時皇太子殿下であられた大正天皇が北海道行啓の際、旭川にもお立ち寄りになられ、離宮予定地である神楽岡にもお越しになられることが発表されます。
  当時の旭川町では現在神社境内の「神楽岡碑」の場所にお休所を建設しそこまでに至る道路も新たに整備するという大がかりな奉迎をおこないました。

 

離宮計画は消えて・・・

 時は過ぎて大正4年、現在の宮下21丁目にあった上川神社は大正天皇御即位御大典の記念事業として社殿を新築し、手狭な為新たな場所に移転もあわせて行うこととなり、その土地を検討していたところ、計画が止まったままでいまだ開拓前の姿を留めている離宮予定地が候補に挙がりました。御料地でもあり、難しいとの意見も出ましたが、種々交渉に当たると話しは進み、大正9年5月移転と御料地の一部を神社敷地として貸与するとの許可が出ます。その後4年の歳月を経て、同13年5月現在の場所に社殿が竣工します。

 「離宮計画」は有耶無耶の内に消えていき、いまその面影は「神楽岡碑」を残すのみですが、岩村通俊らが「ここに離宮を」と情熱を注ぎ、永山武四郎が
  「上川の清き流れに身をそそぎ、神楽の岡に幸行仰かん」
と詠んだ神楽岡は、開拓当初の姿を上川神社と神楽岡公園としてその神厳さを保ち、「一都府たらん」と先人達が夢見た広大な上川盆地が発展した姿を望むことができます。

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